展示構成

第一章 長浜城の廃城と彦根藩の統治
第二章 産業の発展と花開く民衆の文化
第三章 村のくらしと生業
第四章 小藩の成立と運営、そして明治維新へ
 
 
第一章 長浜城の廃城と彦根藩の統治

 元和元年(1615)、長浜城主・内藤信正は、摂津国(大阪府)高槻に転封となった。遺領は彦根藩主・井伊直孝に与えられ、以後、現在の長浜市域の多くが彦根藩領となる。
 さらに、この年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府は一国一城令を発令。長浜城は城主不在のまま廃城となり、その資材および北近江の要の城としての役目は、井伊家が近江国北東部に築城をはじめた彦根城に移された。
 彦根藩領となった長浜町について、直孝はここを自領内北部の中心的都市と位置づけ、秀吉が長浜町に認めた町屋敷年貢300石の免除の特権を引き続き認めることで、その発展を図った。こうして、長浜城の城下町として誕生した長浜の町は、町人町として、そしてその運営のほとんどを町人が担う自治的都市として、歩みはじめた。

   
「近江国長浜絵図」 江戸時代(後期)  当館蔵 古城部分
 江戸時代の長浜町を描いた絵図である。琵琶湖には船が浮かび、東の長浜八幡宮、北東の大通寺、南の徳勝寺は大きく記され、名称とともに境内の様子が墨と淡彩によって描かれている。数種伝わる江戸時代の長浜町絵図のなかでも比較的華やかな作品である。南西に、大通寺六世・明達院が開き嘉永年間(1848-54)に廃された大通寺別荘がみえるため、本絵図に描かれるのは江戸時代後期の長浜の景観といえるだろう。
 本図では、絵図の西側、かつて長浜城があった琵琶湖畔には、花を咲かせる1本の桜の木が描かれ、「古城」と墨書される点が注目される。本絵図は、大通寺を中心に長浜の主要寺院を記すことに主眼がおかれるが、そのなかで長浜城跡を寺院同等に大きく記していることは、廃城後の江戸時代においても、長浜城の存在が人々の意識の中にあった証といって過言ではないだろう。

第二章 産業の発展と花開く民衆の文化

 長浜城の廃城により、城下町としての機能を失った長浜の町は、大通寺の門前町、北国街道や琵琶湖水運が中心となった町人型の都市として発展していく。湖北地域の中心都市として近在、近郷の村々と経済圏を形成し、物資の集散基地として栄えた。特に、湖北は古くから養蚕が盛んであり、江戸中期以降は彦根藩の奨励もあって良質の生糸を原料とした浜縮緬や浜ビロード、浜蚊帳などの織物産業が発展し、繁栄を極めた。
 こうした繁栄がもたらす経済の拡大などを背景に、都市部では長浜曳山祭、農村部では太鼓踊りや冨田人形など、多彩で豊かな民衆文化が花開いた。
 
板倉槐堂筆「竹図 」 明治時代 当館蔵  
 文政5年(1822)、近江国坂田郡中村(現・長浜市下坂中町)にて医師・下坂家の五男として生まれた板倉槐堂(いたくらかいどう・1823~1879)が描いた竹の図。
 のちに、槐堂は京都の薬種商・武田家に養子に入り、坂本龍馬(さかもとりょうま・1835-67)ら幕末の志士と交流があったことで知られる。

第三章 村のくらしと生業

1.[国友鉄砲鍛冶たちの江戸時代]
 国友鉄砲鍛冶は、長浜町の少し北に住み、鉄砲製作を生業として暮らしていた。彼らについては、戦国から安土桃山時代にかけて、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの名だたる武将に重用された印象や、もしくは江戸時代も終わりのころに登場した、発明家・科学者として活躍した国友一貫斎の印象が強いかもしれない。
 では、その間の時代である、江戸時代にはどのように暮らしていたのだろうか。
 2代将軍・徳川秀忠の代には、江戸時代後期まで続く年寄(集団のリーダー的存在)を中心とした組織も徐々に整う一方で、そこに属さない派閥・十人鍛冶が組織された。そのほかにも、飢饉、仕事量の減少、鍛冶仲間内外での事件など、数々の問題に対して鍛冶職人たちが立ち向かった姿が文書資料に表れている。
 本章では、これまであまり取り上げられてこなかった江戸時代初期から中期にかけて紹介するとともに、国友鉄砲鍛冶たちが生きた江戸時代に迫る。
 
「大坂夏之陣図」嘉永元年(1848) 個人蔵(国友助太夫家文書、当館寄託)  
 豊臣秀頼が再建した方広寺の釣鐘の銘文をきっかけに起こった大坂冬の陣につづき、元和元年(1615)4月末から5月上旬にかけて行われた徳川軍と豊臣軍の最後の合戦が大阪夏の陣である。冬の陣では大坂城の外壕を埋めることで和睦したが、処遇に不満を持つ豊臣方の武将たちは戦の準備を進めていた。4月24日京都に着いた家康が、秀頼に3ヵ条の要求を突き付けたことを契機に、両軍が進軍を開始した。
 国友鉄砲鍛冶たちは、冬の陣に引き続き、徳川方に鉄砲を大量に納めるため、時に急かされながらも、昼夜と無く鉄砲製作に勤しんだ。戦いの後には、その働きぶりが評価され、白綾紋付一重や白銀十枚を与えられている。
 

  第四章 小藩の成立と運営、そして明治維新へ
 江戸時代、湖北の多くの地域は彦根藩領であったが、村落部では、多数の藩領と幕府領が錯綜して存在していた。このうち湖北に陣屋(政庁)を設けたのは、小室藩と宮川藩である。いずれも一万石余りの小藩であったが、当地に大きな影響を与えた。また、幕末から新政府の樹立に至る動乱期には、半年に満たない期間ではあったが朝日山藩が置かれた。
 
「坂田郡宮川村郷絵図」
江戸時代(中期) 当館蔵(垣見家伝来資料)
 
 宮川藩は、近江国内各所に領地をもち、元禄11年(1698)から明治4年(1871)まで宮川村(長浜市宮司町)に陣屋を置いた。藩主は、徳川家康の忠臣であった堀田正休を初代に、9代にわたり堀田家が務めた。堀田家は江戸に暮らす定府大名であり、領地の運営は当地の家臣や土豪・垣見家に任された。1万3千石の小藩の実態を伝える資料は多くないが、同地に鎮座する日枝神社の資料や、「垣見家文書」(長浜市指定文化財)がその足跡を伝える。また、歴代藩主たちは、書画をよくし美に通じ、彼らの作品は長浜を中心に伝わっている。
 約170年間つづいた宮川藩は、明治4年、廃藩置県により宮川県となり、間もなく長浜県と合併し、消滅した。
 本資料は、江戸時代中期に作られた宮川村の絵図。画面の上が東、左が北である。西北部分が村の中心地で、そこから南北に走る街道沿いに町が帯状に展開している。街道沿いには鍛冶屋や大工などの職人や、紺屋、米屋、菓子屋などの商人の住む町家が多数軒を連ねており、小規模な城下町であったことが読み取れる。陣屋は街道から少しはずれた西端にあり、川に面した土地に「御陣屋」として記されている。その南側には百姓の家も建ち並び、小さな集落であるが、当時の活気ある様子が感じられる。
 

 
堀田正民筆「孤鷹撃雀図」
江戸時代(中期) 当館蔵(垣見家伝来資料)
 
 宮川藩の歴代藩主は能書家が多いが、6代藩主・堀田正民(まさたみ)(1791-1838)はとくに絵画に巧みであった。
 画面左端の草花に1羽の鷹が飛びかかり、花陰から雀達が飛び出し、一目散に四方へ逃れている。急上昇あるいは下降する雀たちの姿、逃げ遅れた一羽を鋭い爪で掴み、体をねじり逃した獲物へ厳しい眼光を向ける雄々しい鷹の姿、彼らの攻防に体をゆらす草花など、緊張感に満ちた瞬間をとらえている。丁寧な筆線と彩色からも、熟達した技術を感じとることができ、職業絵師にも匹敵する完成度を見せている。